華道の真実
先日華道を学ぶ機会があった。もちろん本格的なそれではなく、未経験者用のクラスだったがとても興味深いものだったので記録しておきたい。
武士がやるものだったという。華道というとどうしても女性が嗜むというのが一般的なイメージだったので驚いた。
武士がなぜやっていたのかというと、自分が持っている兵や武器、土地などでいかに戦うのかのシュミレーションのためにやっていたとのこと。今の会社組織でもそうだが、常にほしい人材やアセットがあるわけではない。そのような状況でもどう戦術を組み立てていくのかを考え手を動かしていくことが、華道の「手持ちの花」「道具」を使っていかに自分の求める形を表現するのかという「適材適所を考えること」に通じるのだという。
その後江戸時代で侍という存在がなくなってしまったため、華道を取り仕切る人間にとっては嗜むものがいなくなるのは避けたいという思惑から、そのターゲットを町人に定めたのだそうだ。町人がやると遊女もやる、そう現代の銀座のホステスが新聞を読むのと同じように。
そもそも華道は正座してやるものでもなかったそうだ。正座は罪人の座り方、降参を意味する座り方である。武士はあぐらをかいて花を活けていたそうなのだが、華道が町人に普及した時代には西洋のテーブルデコレーションが入ってきたため、とても派手な概念が海外から入ってきた。それに対して日本的な文化を残すため、そして女性が嗜むということもあり、そこで初めて茶道、華道が正座して嗜むもの、という形を得たのだという。
華道は時代の流れとともに形を変えさせられた「道」なのであるらしい。また華道、茶道などの「道」のつくものは「それで道を作る」という意味。自分で自分の道を作れということ。俗人が全員座禅出来ないので、そのかわりとなるものだそうだ。
依り代というのをご存知だろうか?降りてきてもらいたい神様を呼ぶためのアンテナみたいなものだという。日本人は万物に紙が宿る考えていたので、その媒介するためのアンテナとしてよりどころというものを用意していた。過去は木の枝だったりしたのが、これを花で行うようになったのが、生け花だという。
神に降りてきてもらう場所となるため、あまり手をかけすぎるのはだめらしい。切れ味のいい(つまり質のいい)鉈や鋏を使ってさっと、触る時間を減らしてきれいなまま依り代を作るのだそうだ。
手は脳の出先となっている。腕が意思を示し、手のひらが感情を示し、指先が思考を示すのだそう。そのため作ったもので人となりがわかるらしい。その人が今思っていることや考えていることが自然に生け花の形や作り方を通して出てくるのだそうだ。
強いリーダーが求められる時代ではない。誰がいつリーダーになるかわからない。思い通りにいかないものに対峙することで、どうリーダーシップをとるのかがわかるのだという。
元来「和」という言葉は「あなたとわたしが一緒であること」を指し示す言葉であったらしい。迎合でも同調でもない。違いながら一緒にいること。
和することが得意なのが日本人であり、その証拠に複数の宗教が共存している。これは他の国にはありえない。
スポンサーリンク
スポンサーリンク